北緯45度にまつわる人間ドラマ






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美しい日本の歴史的風土100選
「美しい日本の歴史的風土100選」(財団法人古都保存財団など主催)に、北海道内から
小樽市の「小樽運河と周辺の歴史的街並み」、
函館市の「西部地区の歴史的街並み」、
渡島管内松前町の「城下町の遺産」が選ばれました。

 同財団が古都保存法施行四十周年記念事業として昨年秋に募集し、全国から698件の応募があり、その中から選ばれました。

小樽は「明治から昭和初期の繁栄を伝える銀行や商家、運河沿いの倉庫群が港町の風情をかもし出している」ことが評価されました。

 函館は「明治・大正期の洋風建築、倉庫、教会などが坂道景観とあいまって異国情緒をかもし出している」が選出のポイントでした。

松前は「松前城趾(じょうし)や寺町などの街並みが日本最北の城下町の面影を今に伝えている」ことが注目されました。

 小樽市は昨年秋、景観法に基づく景観行政団体となり、罰則規定を盛った景観条例制定の準備を進めています。
今年の1月に2回、延べ4日間にわたって小樽を旅してきましたが、歴史的景観に対する市民の意識が素晴らしく、今回の選出によって、更に実行のある歴史的景観の保存が図られることを期待します。
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遠山景普
 遠山の金さんとして親しまれる息子には及ばないが、長崎奉行時代の活躍がテレビ時代劇になった遠山景普は、のちに勘定奉行にまでのぼりつめ、能吏として歴史に名を残す人物である。しかし、彼の在任当時の長崎は、貿易で潤って景気がいい、とよべる状況にはなかった。遠山の長崎在職の課題は、緊縮政策実現にあったといわれる。ナポレオン戦争の影響を受けて、何年にもわたってオランダ船の入港を見なかったからである。
 バタヴィアから断絶された困難な状況の出島を切り盛りしていたのは、商館長ヘンドリック・ドゥーフである。彼もまた、本国帰国後はオランダ貿易会社重役に昇進し、一方でオランダ語辞書『ヅーフ・ハルマ』にも名をとどめるなど、商人としても文化人としても人並外れた才能を持っていた。彼のつけていた商館日記は、既に日蘭交渉史研究会『長崎オランダ商館日記』(雄松堂出版)として、翻訳出版されている。この東西の才人が、同じ時期に同じ町でそれぞれ日記をつけていたのである。
 二人は、遠山がレザノフ応接のために来崎したとき以来の再会であった。そのときは奉行の同伴者だったが、今度は違う。ドゥーフは遠山の出島での一挙手一投足を日記にしるし、「頼りになりそうだ」と見抜いている。ドゥーフが遠山の手腕を実感するのは、再会の数日後、長崎の大火においてである。遠山は、火の勢いから「様子次第早々舟にて立退せ可申候、其節伺候様にては手後れに相成候」と命じたのであった。出島の水門は直ちに開かれ、商館長たちは朱印状をもってかろうじて脱出した。遠山は「かひたん安心致難有旨申聞候」と日記に記している。そればかりではない。この命令を伝えた検使は、『商館日記』では トシロウ Tosiro としか判らなかったのが、遠山の日記は、彼が月番手付清水藤十郎であることを教えている。二人の日記は、奉行所と出島の間の出来事をつぎつぎに立体的に再現してくれる。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術


近藤重蔵
 近藤は、幕府与力の子として江戸駒込で生まれました。青年時代は、湯島聖堂(ゆしませいどう)で行われた学問の試験である「学問吟味」に合格するほどの秀才でした。学問吟味は約300人が受験し合格者は47名でした。最高の「甲」合格者には、遠山金四郎景普や狂歌で名高い太田南畝などがおり、重蔵は「丙」合格でした。「丙」とはいえこの試験に合格することはたいへんな栄誉でした。

 24歳の時に長崎奉行中川勘三郎忠英の推挙で、長崎に赴任しています。当時外国に窓を開いていた長崎での見聞は貴重なものでした。 
25歳になって、幕府に蝦夷地(えぞち)の警備(けいび)をしっかりしなければと意見を具申し、蝦夷地に行き、国後島(くなしりとう)や択捉島(えとろふとう)を探検しました。

 1802年には、択捉島が日本の領土であることを示すため、島に木柱を立てました。その後も5回にわたって蝦夷(えぞ)・樺太(からふと)・千島を探検し、道路の建設や、高田屋嘉兵衛の協力を得て、北の海の航路(こうろ)の開拓に力を入れ、北方地域の地図も作成しました。また、そのころは原始林におおわれていたと思われる札幌付近の土地を見て、蝦夷地の中心としてふさわしいところだと幕府に、意見をいったといわれています。

テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術


遠山の金さん。宗谷へ!
●遠山の金さん、宗谷へ
 「てめーら、この金さんの桜吹雪、見事散らせるものなら散らしてみろい」
 ご存知、北町奉行・遠山金四郎景元の名台詞(せりふ)です。このイレズミ判官(はんがん)「遠山の金さん」の父親が1806年(文化3年)に宗谷・稚内・抜海へ来たという記録が残っています。
 父親は遠山金四郎景普(かげみち)といって、前年、長崎で通商を拒否されたロシア使節・レザノフが、長崎からの帰りに、現在の稚内市ノシャップ岬に上陸した事件を調査するためにやってきたのです。金四郎かげみち景普はレザノフが長崎に来た時にも、幕府から長崎に派遣され、通商を求めるレザノフの要求に対して絶対拒否の姿勢を貫きました。
 1788年(文化3年)3月16日、景晋たち一行は松前を発して、陸路北行して宗谷(ソウヤ)に向かいました。最上徳内がその案内役を勤めました。村垣定行は7日遅れて、23日に松前を発ちました。景晋の一行は報告書に、同行の人数を「御徒目附(おかちめつけ)両人、吟味方下役(ぎんみがたしたやく)1人、御普請役3人、御小人目附(おこひとめつけ)2人」と記しています。この「御普請役3人」の内の一人が徳内です。
 一行は、主として陸路を取り、時に舟航の便をかりて、5月11日に宗谷に達しました。滞留すること4日間、14日に帰途に就いて、17日に抜海(バッカイ)で定行の一行とめぐり合いました。6月朔日(ついたち)に石狩(イシカリ)に着き、そこに村垣定行一行の到着を待つて11日に石狩を出発して、22日に函館に帰りました。日を費すこと85日間の宗谷への旅でした。定行は2日後れて14日に帰着した。日を費すこと80日でした。
 抜海から宗谷を巡回して江戸に帰ったのは8月でした。この時「ロシアの攻撃に備えるためには、西蝦夷も幕府の直轄地としたほうが良い」と報告しました。この報告を受けて幕府は、松前藩が治めていた宗谷、利尻、礼文、樺太を含む西蝦夷も幕府の直轄としました。これによりすでに直轄となっていた東蝦夷と併せて蝦夷地全域が幕府の直接の管理下に置かれることになりました。
 「遠山の金さん」として、テレビなどでお馴染みの金四郎景元(かげもと)は、景普(かげみち)の息子で、「金四郎」を名乗るのは1809年(文化8年)からで、北町奉行になるのは1840年(天保11年)のことです。名奉行として名を残していますが、テレビのような派手な立ち回りなどはありませんでした。

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近江商人④
湖東商人(江戸末期~19世紀)は、幕藩体制の崩壊により彦根藩から一斉に出た商人。幕藩体制下では藩は独立経済単位として 自給自足が原則で、物資の流通は藩内限りとし、城下町に商人を置いて城下町への買い出しと地 廻り行商で需要を満たした。彦根藩は内外の事情に通じうる有利な立場にあったので、19世紀初 頭にいち早く統制経済を解除したことにより、北五個荘、愛知川、豊郷、高宮、彦根という中山道 沿いの麻織物産地を舞台として近江商人の仲間入りをした。




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